現在、嬉野市内では、約20トンの和紅茶が生産されています。
ですが、まだまだ日本で紅茶が作られていることすら知らない方や、和紅茶の存在は知っていても飲んだことがない方が多いのが現状です。

うれしの紅茶振興協議会では、様々な場面での「うれしの紅茶(嬉野紅茶)」の楽しみ方をご提案しています。
まずは「うれしの紅茶(嬉野紅茶)」を飲んでいただくことでその美味しさを知っていただき、紅茶の選択肢の一つとして「うれしの紅茶(嬉野紅茶)」を覚えていただければ幸いです。

優しい甘さと豊かな香りが特徴の「うれしの紅茶(嬉野紅茶)」。
おいしい紅茶がうまれるまでの物語をご紹介します。

国産紅茶の誕生。そして消滅の危機!?

うれしの紅茶の茶畑

日本全国の茶産地では緑茶の消費低迷や後継者不足による放棄茶園の増加が問題視されています。このような中、多くの茶産地では一番茶は緑茶に加工して、二番茶以降で紅茶の生産を始める農家が増えてきました。
日本における紅茶生産は明治時代に国策として紅茶を輸出用に生産したのが始まりと言われ、明治・大正・昭和と外貨獲得の重要品目でした。
明治政府は全国に紅茶の製茶伝習所を開設し、佐賀県でも嬉野などに設立されました。これにより嬉野でも紅茶の生産が行われましたが、明治30年代に佐賀県内で5トンほどの生産があったのがピークで実際にはあまり生産されませんでした。
全国的には大戦後も輸出用に数千トンが生産されましたが、それも昭和46年の輸入自由化により国内の紅茶生産はほとんど途絶えてしまいました。(元佐賀県茶業試験場長 村岡実氏調査より)

“うれしの紅茶(嬉野紅茶)”復活までの苦難

それから10数年後の昭和60年頃、嬉野の数軒の生産者が独学で紅茶の生産を始めました。しかし、この時には既に国内で紅茶製造のノウハウを持つところがほとんどなく、試行錯誤の連続でした。今のようにインターネットが普及しておらず、製造に関する資料は本や電話による聞き取りなど全て手探りで情報収集となりました。ですが、本では著者が生産に携わっていないため、抽象的な表現が多く翻訳もめちゃくちゃだったなど、具体的な製法は分かりませんでした。

うまく萎凋ができず青臭かったり、発酵が進み過ぎて酸っぱくなったりと納得のいく紅茶が出来ず、最初の数年間は作っては廃棄を繰り返し生産者としてこの上ない悲しみを味わいました。3~4年の月日を経て、ついに海外産の紅茶とは一線を画す、優しい甘みのある飲みやすい「うれしの紅茶(嬉野紅茶)」が誕生しました。

砂糖を入れずにストレートで美味しい紅茶でしたが、当時(平成元年頃)は国産の紅茶に目を向ける生産者はごくわずか・・・。お茶屋さんも見向きもしませんでした。それでも美味しい和紅茶を多くの人に届けたいという思いから毎年研究を重ね、品質の向上に努めて、独自のルートで販路開拓を続けていきました。そんな折に佐賀市で国産紅茶を扱う紅茶専門店がオープンし、これを機に徐々に和紅茶、そしてうれしの紅茶の認知度が上がり始めました。

国産紅茶ブランド「うれしの紅茶(嬉野紅茶)」と「うれしの紅茶振興協議会」の設立

うれしの紅茶の茶畑

平成18年頃になると、嬉野市内の若い茶生産者が紅茶の製造を始め、佐賀県内の道の駅や直売所で販売されるようになりました。しかし、「ここで買ったのは美味しかったけど、あそこで買ったら美味しくなかった…」と品質のバラつきを指摘する声が聞かれました。
品質向上のために製造技術の情報交換や販路開拓、ブランド化推進のための組織づくりが求められるようになり、ついに平成21年2月に「うれしの紅茶振興協議会」が設立されました。
協議会では製造研修会や台湾、鹿児島視察、市場調査などを積極的に行い、会員の紅茶製造の技術は年々向上しています。

うれしの紅茶振興協議会では、これからも安全で美味しい紅茶を皆さまのもとへお届けします。